カテゴリー: 生活
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「忙しい」と言ってしまうことは
「やらなくてもいいこと」である。
「忙しいけどやりたい」ことは、
本当に「必要なこと」である。
育児と仕事を両立し、
その中で自分の時間を捻り出すことは、
何かを削っていることになる。
削る=マイナス要素が多い。
しかし、本来は、
自分時間=心の余裕の表れ
つまり、プラスの要素しかない。
この自分時間が作り出せない時は、
余裕がない時が多い。
そして、
余裕がない時は判断ミスが多い。
判断ミスが多くて何もかも嫌になる。
こんな悪循環に陥ることもしばしばある。
この悪循環を断ち切るには、
この2択が有効である。
これがなされない時、
それはやらなくていいこと、
必要性がないのである。
20代を振り返ると、
ただがむしゃらに仕事へ行き、
休日は寝室からほとんど出ない。
スマートフォンで手遊びをし、
いつの間にか夕方。
面倒だからご飯も適当。
いつの間にか夜。
こんな日々が多かった。
もったいなかった、と思う。
けれど、この時は、
この行動が心を安定させるために、
必要だったのだ。
30代になり、
仕事に育児も加わった今、
変化が起きている。
忙しいから、
夜の時間の貴重さがわかる。
自分が1人になれる時の、
安心感の深さが違う。
だから、
やりたいことの優先順位をつけて
その日の自分のペースに合わせて、
スパンを長く見積もって、
取り組むことに面白みを感じる。
- 読書
- ゲーム(10代から変わらない)
- 美味しいものを検索
- 子どもたちとの散歩
この4つを主軸として、
夜の自分時間がゆったりと回されていく。
もちろん、
本当に時間がない時もある。
子供がなかなか寝つかなかったり、
夜泣きがあったり。
家事が追いつかず、
いつの間にか寝る時間だったり。
そんな日もある。
それでいいと思う。
忘れてはいけないのは、
わたしもあなたも
1人の人間であるということ。
子どもがいるから、
完璧にやる必要はない。
仕事があるから、
他を犠牲にする必要はない。
1人の人間として、
自分にここまでやれたら、
合格だね。
そういう心づもりでいることが肝要だ。
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子どもが2人いる。
まだ小さく、とても脆い存在であり、
またとても大きな力で持って、
わたしを成長させてくれる存在である。
この2人のうち、
下の子が生まれてから
3回、入院している。
その都度、わたしは付き添い入院をし、
上の子はパートナーとともに、
2人で急場を乗り切ってきた。
付き添い入院から得たもの
- 我が子の大切さ
- 健康の素晴らしさ
- 家族という関係の強さ
「我が子」という存在の希少性
コロナ禍では付き添い入院ができず、
ほぼ管理入院であったという。
1回目の緊急入院は心が追いつかず
いつのまにか時間が過ぎ、
経過観察のための退院となった。
2度目の検査入院は1週間という
終わりの見える入院だった。
上の子とパートナーと、
退院する日を指折り数えていた。
3度目の検査入院では
医師からはまだ子どもが小さく、
記憶にも残らないため、
親の負担軽減のための管理入院を勧められた。
期間も約1ヶ月、
まずは付き添い入院後に
管理入院に切り替える形を取ろうと
医師と計画していた。
管理入院は、つらかった。
子どもはもちろん、
親であるわたしが、耐えられなかった。
管理入院は面会が可能で、昼間~夜まで、
下の子と一緒に過ごし、
時間になると家に帰って上の子と過ごす。
言葉にしてみると
そこまで無理のないように見える。
だが、わたしの場合、
そこが落とし穴だった。
理論上、下の子の面談にも行ける、
上の子と一緒にいられる時間もできる。
しかし、
夜の病院の知らない場所で
周りの患者さんたちの泣く様子、
機械の音、
どれもこれも、
下の子1人で耐え切ってほしいとは
思えなかった。
パートナーと相談し、
また付き添い入院に戻してもらった。
ほっとしたのと同時に、
まずはわたしのやれることを、
と気合が入った。
下の子の入院していた病棟には
様々な状況下の子どもたちがおり、
それぞれが一生懸命に生きていた。
もし、わたしが下の子と
ずっと付き添い入院で過ごしていたら、
聞けなかったであろう「声」も、
多くあった。
いま、この腕の中にある、
小さな命たちとともに、
懸命に生きたいと
強く実感させられた。
健康であること
上の子は風邪こそ引くが、
入院という規模の病には幸運にも罹らず、
元気に過ごすことができている。
これが、幸運である、
ということに、下の子のおかげで
気づくことができている。
生きてここにあること、
その重要性を、
病棟で過ごした日々から
切に感じる。
奇跡の積み重ねの中に、
わたしはこどもたちとともに、いる。
「家族」のあり方
入院に向けて、
パートナーとは多くの話をした。
上の子をいつもより
多く抱きしめるようになった。
下の子の呼吸音に、
安堵する時間が増えた。
様々な家族がある中で、
この中にいられてよかった、
と心から思う。
これから、付き添い入院をするあなたへ。
子どものことが心配なのはもちろんだ。
けれど、まずは自分の体調状態を
整えて臨むことが重要である。
付き添いは、過酷である。
簡易ベットがあったとしても、
やはり満足な休息は得られない。
わたしは自分の中でのルーティンを決め、
それを達成できたかどうか、
日記にして、
子どもと話して確かめ合って、
自分を鼓舞していた。
子どもは、大人を見ている。
大人が元気にしっかりとみつめれば、
子どもも環境が変わっても、
適応しようと努力してくれる。
大丈夫、いつか終わりはやってくる。
それまでの嵐をどう乗りこなすか、
楽しめるよう、準備をしていこう。
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読書は役に立つのか。
答えは、イエス。
人生は長くて百年。
その中でどれほどの経験をできるか、
考えてみると圧倒的に時間が足りない。
いま、仕事と育児に追われて
「何かしない」と、
と焦る傍ら、
何もなっていない現実に、
自分に、失望することが多い。
いつのまにか1日が終わっていて、
いつのまにか、寝る時間となる。
そんな中でいつ、読書するか。
30代になって生まれるもの
- 仕事に慣れてくる余裕
- 物事の要領をつかみやすくなる
- 時間を自分のために使える
簡単にいうと、
自分のやることを
自分で選ぶ余裕が出てくる時である。
転職したい、という考えも
この時浮かびやすい。
だからこそ、よく考えてみる。
今の自分、すきかどうか。
すきならば、
もっとすきになるにはどうするか。
微妙ならば、
なぜ微妙なのか。
この問いを突き詰めていくと、
自己分析になる。
自己分析とは己を知ること。
己を知ることで、
大事にしたいものも
明確化されてくる。
たとえば、30代社会人男性。
仕事では周りから頼られるようになる。
先輩も後輩もできる。
良くも悪くも、
自分の立ち位置があり
振る舞い方一つで信頼関係がゆらぐ。
家族もいて、優先できているつもり。
特に問題のない人生のように思う。
ここに読書が加わるとどうなるか。
変化が起きる。
問題のない人生から少し時間を捻り出し、
本と向き合うことで、
1人の時間が生まれ、
自己をより客観視できるようになる。
この変化こそ、
読書の醍醐味である。
「やっていたつもり」のものに目が向き、
本当の意味での「やる」ことに気づく。
ここでの男性でいうならば、
家族への関わり。
主体性、と言われるけれど
当事者として
家族を見ることができるようになる機会が
読書によってもたらされる。
俗にいう、
啓発本を読む必要はない。
すきなものでいい。
おすすめは小説やエッセイだ。
言葉に触れることで、
自己の内部が言語化されて
内省へと自己を導いてくれる効果を、
言葉は、ないしは読書は持っている。
言葉は、その人を形作る。
言葉を知ることで、
大切な自分を見つけることもできる。
読書とは、一つの出逢いとも言える。
どんな本に出逢えるか、
どんな自分が未来に待っているか、
そんなワクワクとした気持ちを、
30代になっている今だからこそ、
人生に立ち止まる時間だかこそ、
味わい、噛み締める必要があるのだ。
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この3択、何を選ぶのが正解か。
結論、どれも正解だ。
自分が選ぶことに
意義が生まれる。
よくあるのが、
考えるだけ時間の無駄
という考え方。
別にそう思ってもいい。
それがその人の選んだことだから。
考えることで生まれる産物こそ
その人をカタチづくる
凄まじいものの一部となる。
仕事という感覚がなく、
仕事場にいることで安心ができる。
しかし、そう思えるのは、
幾度もしんどかった時期を超えたから、
見えている景色でもある。
同時に、
帰ってきても、
家族がいても、
落ち着かなかった。
今思うと、
家というものの存在を、
「枷」だと思っていた気がする。
30代になって、
家族ができて、
仕事も落ち着いて、
やっと考えるのが、
何を選んだのか。
何も選んでいないようで、
要所要所で選択してきた。
この時、
- 泣いた
- 友人から遠ざかった
- 1人が怖かった
- 誰にも話せなかった
心理状態としては最悪。
この心理状態を、
何度も超えてきた。
強いわけではない。
たくさん泣いたし、
失敗したし、
怒られた。
だけど、選んだ。
だから、ここに今、
いるんだと思う。
考えて、考えて、失敗して、凹んで。
それでも繰り返し、やる。
やり方は愚鈍かもしれない。
それで、いい。
それが、いい。
30代なっても、
幾つになっても、
愚直に突き進んでいくことが、
最大の力となる。
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うまくいかない時こそ、
自分を底上げできる。
こんな経験がある
せっかく準備したのに、
終わった後、
なんで誰も喜んでくれないのか。
「ありがとう」って言ってくれないのか。
その答えは
「見返りを求めたわけではない。」
という心と裏腹に
なにかの期待があったということ。
この期待が厄介。
無意識下にあるからこそ、
終わってから気づく。
そんな時は、まず
深呼吸したい。
1人になりたい。
頑張って向き合うのは、
そこまでやってきた自分を
抱きしめてからでも遅くない。
年月の中で、違いに恐怖を覚えたり、
とても不安に駆られたりする。
経験のなさが原因と言われると、
それで済むのかもしれない。
だけど、恐怖や不安があるのは、
自分自身のSOSであることを
忘れずにあるべきだ。
育児をしている中で、
漠然とした不安が
モヤモヤと
心の片隅に座っていることがある。
男とか女とかではなくて、
ひとりの人間として、
このままでいいのか、不安がある。
その不安と向き合うことが
いまの最大の目標。
目標は高いほうがいいというけれど
わたしは、わたしがしっかりと
手を伸ばせるギリギリのところの
わたしを、掴みにいく。
不安こそ、
自分を成長させる転機となる。
不安でいい。
不安があるから、
前に進む安心を手にするために、
一歩踏み出そうと思うのだから。
この文章を読むあなたもそうかもしれない。
不安こそ、成長の一歩だ。
あなたは間違ってない。